2026年9月03日

猫と日帰り手術
なぜ、私は「日帰り手術」を専門にするクリニックをつくったのか。
そのきっかけの一つに、私が大学で外科医として働いていた頃に出会った、ある患者さんとのエピソードがあります。
そして、その話には一匹の「猫」が登場します。
「猫がいるので、入院できません」
その患者さんは、鼠径ヘルニアで私の外来を受診した女性でした。
鼠径ヘルニアとは、足の付け根の部分から、腸などのお腹の中の組織が飛び出してくる病気です。
自然に治ることはなく、根本的に治すためには手術が必要です。
私は患者さんに手術を勧めました。当時、私が勤務していた病院で鼠径ヘルニアの手術を受ける場合には、数日間の入院が必要でした。
ところが患者さんは、なかなか手術を受けようとはしませんでした。
理由を聞くと、
「家に猫がいるんです。入院すると、猫の世話ができなくなってしまうので……」
ということでした。
結局、そのときは手術をせず、経過を見ることになりました。
当時の私は、正直なところ、その言葉を十分には理解できていなかったと思います。
「病気を治すことの方が大事なのだから、猫は誰かに預けて、入院して手術を受けた方がいいのではないか」
心のどこかで、そんなふうに考えていました。
ある日、救急車で運ばれてきた患者さん
それからしばらくして、その患者さんが突然、救急車で病院に運ばれてきました。
鼠径ヘルニアが「嵌頓(かんとん)」を起こしていたのです。
嵌頓とは、飛び出した腸などが元に戻らなくなってしまう危険な状態です。緊急手術が必要になることがあり、命にも関わる状況です。
患者さんもそのまま緊急手術となり、結果として何日か入院することになりました。
幸い手術は無事に終わり、鼠径ヘルニアも治すことができました。
そのときの私は、
「だから、あのとき手術を受けておけばよかったのに」
と、少なからず思っていました。
ところが、手術後に病室でその患者さんとゆっくり話をしたことで、私の考えは変わりました。
私にとっての「入院」と、その人にとっての「入院」
話を聞いていくと、その患者さんにとって、猫は単なるペットではありませんでした。
日々一緒に暮らし、自分を待っていてくれる、とても大切な存在でした。
その人の生活の中には、その猫がいることも含めて「日常」があったのです。
そこで私は初めて気づきました。
医療者である私にとっては、「数日入院して病気を治すこと」が当然の選択に思えても、患者さんにとってはそうとは限らない。
仕事を休めない人もいます。
子育て中の人もいます。
家族を介護している人もいます。
そして、家で待っている猫を放っておけない人もいます。
何を大切にして生きているかは、人によって違います。
それを他人が「こちらの方が大事だ」と決めることはできません。
病気だけを見ていれば、私は正しいことを言っていたのかもしれません。
でも、患者さんの「生活」まで見ていたかと聞かれると、当時の私は十分ではありませんでした。
この患者さんとの出会いは、そのことを私に教えてくれました。
もし「日帰り手術」という選択肢があったなら
後になって、私は何度も考えました。
もし、あのとき私が、
「朝に来院して手術を受け、その日のうちに自宅へ帰る」
という選択肢を提示できていたらどうだっただろう、と。
もちろん、日帰り手術であれば必ず手術を受けてもらえたとは限りません。
それでも、猫のいる自宅を何日も空けることなく治療を受けられるのであれば、その患者さんにとっては、手術を考えるための大きな選択肢になったかもしれません。
そして、早めに予定手術を行なっていれば、あの緊急手術は避けられた可能性が大きいでしょう。
この経験から、私は「日帰り手術」という医療に強く関心を持つようになりました。
病気を治すだけではなく、「日常」を守る
手術の目的は、もちろん病気を治すことです。
そして、安全であることが何よりも重要です。
だから日帰り手術は、誰にでも、どんな病気にもできるものではありません。患者さんの状態を十分に評価し、安全に行えると判断した場合に選択する治療です。
そのうえで私は、
病気を治すことと、その人の大切な日常を守ることは、できる限り両立させたい
と考えるようになりました。
長く入院することを当然とするのではなく、必要な治療をきちんと行いながら、できるだけ早く自分の家へ帰る。
仕事、家族、趣味、そしてペットとの暮らし。
人それぞれにある「いつもの生活」を、手術によって必要以上に止めない。
その後、外科医として手術を続ける中でも、この思いは少しずつ強くなっていきました。
そして最終的に、
「日常を止めない日帰り手術」
を実践する場所を自分でつくろうと考え、町田そけいヘルニア日帰り手術クリニックを開院しました。
私が日帰り手術に価値を感じるようになった原点をたどると、そこには、ひとりの患者さんと、一匹の猫がいます。
病気だけではなく、その人が大切にしている生活まで考える。
これからも、そのことを忘れずに診療をしていきたいと思っています。
町田そけいヘルニア日帰り手術クリニック
院長 安藤文彦